ポートレートを撮影している人だったら、春が来て暖かくなると、「あーこれで外撮りができるなぁ」と、少し気持ちがときめく感じになったりする。そんな時、「こんな時期に撮った、あの子とかどうしているのだろう?」と、ふと思い出す瞬間。
最近こそ月イチで撮るか撮らないかみたいな活動ペースだけど、ポートレート撮影を始めてから、もう7〜8年経とうとしている。最初は、フルサイズとAPS-Cの違いも分からず、見よう見まねでとにかく、撮影会に参加したり、Twitterで活動している子にモデルを頼んだり、仕事が終わってからとか、週末に撮影の予定を入れていた。
(この頃、ある被写体の女の子から「カメラマンなら、これからはInstagramやらなきゃ!ケンタソーヤングとか、あきりんとか、めちゃくちゃ有名なアーチストが誕生している」と言われたのがInstagramを始めたきっかけです)
その中には、一時的にとりつかれたように作品作りを一緒にしていた女の子もいたりして。何度も撮影を重ねて、時には別日に数時間カフェで話して、構想を練ったり。撮影も呼吸のリズムも上手に合わせてくれて、ドキドキするような作品を量産していた。「この写真スゴイ」と、(多分女の子が凄いのが大半)撮影している時、呼吸が止まるような気分になることもあり、その空気感というか体験が好きだった。
その中にはSNS界隈で話題になった子もいたり、フォロワーが一気に増えたり、事務所に入って本格的にデビューした子もいて、「あの子が!?」と、少し誇らしいような、寂しいような気持ちでその姿を見ていたこともあった。
でも、そんな彼女たちもSNSの更新が止まってしまっていることが多い。アカウントは残っていたりしても、投稿は数年前のまま。「消えた」と言ってしまうのは少し違うけれど、確かに”今”の彼女たちの姿は見えなくなってしまった。
SNSの波は速くて、激しい。日々新しい手法や作品が流れてきて、次の話題がどんどん上書きされていく中で、少し前の写真たちは静かに、そしてゆっくりと見えなくなって沈んでいくような感じだ。
あのとき夢中でシャッターを切っていた日々も、いまでは少し遠い過去だ。時間の流れって本当に速い。新しい季節がくるたびに、何かが上書きされていく。記憶ってあっけないほどに薄れていくものなんだなと思う。
でも、(カメラマンにとって)写真は違う。撮ったときの温度や空気、光の加減、時間、場所、1枚の写真を見るだけで一瞬で蘇る。まだレタッチなんてまともにできなかった頃の、少し色味の甘い写真。そんな中で微笑んでいる女の子の顔を見るたび、「今、どんな風に過ごしているんだろう」と、少しだけ切なくなる。
おそらく彼女たち自身は、その写真のことなんてすっかり忘れているだろう。でも、カメラマンは違う。過去の自分の投稿とかから写真を見つけたとき、ふいにその日を思い出す。部屋の匂いとか、夕暮れの光とか。何気なく撮った1枚の裏側には、自分にしか分からない確かな記憶が詰まっている。
べつに、その子と何か特別なことがあったわけじゃない。ただ、写真を撮る側と撮られる側と言う共通の目的で、ほんの数時間一緒に過ごし、話して、撮影して、作品を作ったというだけである。でも、それがポートレートなんだと思う。
やっぱりカメラマンにとって、ポートレートは少しだけ切ない作品なのだろう。
でもその切なさが、たまらなく愛おしい。
そして、それが少しでも写真を見てくれる誰かに伝わったら、それ以上に嬉しいことはない。
そんなことを呟きたい春の夜でした。
写真モデル:ぱゆ
※ヘッダー画像はイメージです。記事内容とモデルの関連性はありません。